筑波大学
オリンピック・パラリンピック総合推進室

Office for the Promotion of Olympic and Paralympic Activities

オリンピック招致と文京の地

オリンピック招致と文京の地
筑波大学体育系 真田 久 教授

 

東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会まで2年となりました。
1964年の東京オリンピック・パラリンピックから56年ぶりの2度目の開催になります。
東京でオリンピックを開催しようとIOC(国際オリンピック委員会)が決定したのは、第二次大戦前にもありました。それは1940年の大会で、この年に東京でオリンピックが開催される予定でした。(実際には戦争により返上しました。)オリンピックの東京への招致は3回成功していたことになります。
オリンピックの東京への招致に尽力した人たちの中に、筑波大学東京キャンパスが位置する文京区に、ゆかりのある人たちがたくさんいます。

 

オリンピックの東京への招致に尽力した文京区ゆかりの人

  • 嘉納治五郎(1860-1938) 摂津国御影(現神戸市)生まれ
  • 永田秀次郎(1876-1943) 兵庫県三原郡長田村(現南あわじ市)生まれ
  • 杉村陽太郎(1884-1939) 東京府四谷区(現新宿区)生まれ
  • 平沢和重(1909-1977) 香川県丸亀市生まれ

 

IOC委員に紹介された柔道

 

 

ストックホルム1912 開会式

永田秀次郎(1876-1943)

東京市長  1923-24年、30-33年
拓殖大学長 1929-43年

 

1940年のオリンピック開催地に東京を提唱しました。31年10月に東京市会はオリンピック開催要望を決議しました。同年11月に永田市長は大日本体育協会(会長岸清一、副会長平沼亮三)に東京招致の協力を要請しました。

 

永田市長からIOCに送られた東京への招請状(IOC所蔵)

 

拝啓
東京市および東京市民を代表し、国際オリンピック委員会に対して、1940年に第12回オリンピックが日本で開催され、東京がオリンピック都市として選ばれるよう、招請申し上げるものです。私どもは、第12回オリンピアードを開催する栄誉と喜びが与えられることを切望し、成功の暁には近代オリンピック史上、注目に値する大会とする所存であります。
また、1940年は皇紀2600年にあたるので、オリンピック・ムーブメントに比類のない貢献を果たす決意であります。
1940年のオリンピック都市に東京が選ばれた時には、第12回オリンピアードにおいて卓越した輝かしい成果が得られるよう、あらゆる面で最善を尽くします。
聖火が東洋への道を照らさんことを。そして我々の親密な関係が、人類のために国と国との相互理解をさらに深め、より純粋で、熱く、さらなる勇気に満ちた友情が育まれんことを祈りつつ。
敬具
東京市長 永田 秀次郎
1932年7月9日

 

 

嘉納治五郎(1860-1938)

講道館長      1882-1938
東京高等師範学校長 1893-1920

 

《嘉納治五郎 年表》
1860:兵庫県神戸に生まれる
1882:講道館柔道創設
1896:中国から留学生受入れ
1909:IOC委員就任
1911:大日本体育協会設立
1912:日本選手団団長として第5回大会に初参加
1915:東京高師に体育科設置
1920,28,32,36年の大会出席
1936:1940年大会の東京開催決定
1938:IOC総会(カイロ)後、北米からの帰途、船上で逝去

 

日本のオリンピック・ムーブメントは嘉納治五郎がIOC委員に就任した1909年から始まりました。嘉納は国民体育(生涯スポーツ)の普及めざしてオリンピックに参加することを決め、大日本体育協会を創設しました。

講道館柔道の創始者でもある嘉納は「精力善用・自他共栄」の考えをオリンピックに組み込み、東京でオリンピックを開催することで、オリンピックが真に世界の文化になると主張しました。

 

嘉納からクーベルタンに宛てた書簡
(1909年9月14日付け IOC所蔵)
IOC委員選任のお礼と1912年のストックホルム大会への参加について述べています。

 

東京1940大会の展望について米国メディアのインタビューに答える嘉納(1936年)

 

米国IOC委員とベルリンへ向かう嘉納(1936年)

 

 

 

杉村陽太郎(1884-1939)

《杉村陽太郎 年表》
1901 高師附属中卒
1908 東京帝大法卒
1910 仏リヨン大より博士号
1927 国際連盟事務次長
1933 IOC委員
1934 イタリア大使
1937 フランス大使

 

嘉納の懐刀としてイタリアに直談判しました。講道館柔道六段、嘉納塾の出身。東京高師附属中、東京帝大出身の外交官・IOC委員。

 

嘉納の「訳を話して譲れと言えば譲るかもしれぬ」の言葉に従い、ムッソリーニに直談判に行きます(1934年2月)。杉村の熱弁にムッソリーニは日本国民のためにローマを候補地から取り下げると約束しました。
34年2月にオスロで開催されたIOC総会で、「これまでオリンピックは欧州で8回、米国で2回開催されているが、アジアは未開催であり、オリンピックの汎世界性を考えるなら、東洋で行うべき」と主張しました。ムッソリーニに働きかけたことに対して、IOC会長は彼の行動を批判しましたが、杉村は外交として行ったと反論しました。

 

開催地を決めるベルリンでのIOC総会(1936年7月)で杉村は辞任。その直後の投票で、36-27票でヘルシンキを破り東京でのオリンピック開催が決まります。杉村は東京への流れを確実にするために、IOC委員を辞任したと思われます。

 

フランスで柔道を教える杉村

 

 

平沢和重(1909-1977)

東京高師附属中、東京帝大政治学科卒の外交官でありIOCメディア委員でもありました。

 

1938年4月バンクーバーより氷川丸に乗船し、嘉納と居合わせ、嘉納の最期を看取ります。 「奇しき縁で先生の輝かしき八十年の生涯の最後の十一日間といふものを文字通り起き伏しを共にした私は、心から東京オリンピックの成功を祈らざるを得ない」と追悼文を書き示しました。

 

1959年IOC総会で東京招致の演説を行ったさい、「日本では学校の授業でオリンピックを教えており、オリンピック精神を全国民が理解している」と、下記の教科書の一節を読んでアピールしました。この内容が決め手となり、東京に決まります。教育を重視した嘉納の思いに応えました。

 

平沢が演説で取り上げた小6国語の教科書 「五輪の旗」

 

 

オリンピック・パラリンピック教育

オリンピックについて学ぶことを日本は重視し、早くからオリンピック教育が展開されていて、これも招致の原動力になりました。

 

 

一校一国運動から世界友だちプロジェクトへ

1998年に長野で行われたオリンピック・パラリンピック冬季大会では、一つの学校が一参加国を応援する教育プログラムが展開されました。

  • 交流相手国の歴史や文化を学習
  • 日本在住の交流相手国の人を招いて交流
  • 交流相手国の学校と手紙、絵画、インターネットなどで交流
  • 交流相手国の選手や生徒を招待して交流

 

ソルトレークシティー冬季大会(2002)トリノ冬季大会(2006)北京大会(2008)でもこの教育プログラムが行われました。東京2020に向けては「世界友だちプロジェクト」として実施されています。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ選手団を学校に招いての交流(1998年 長野市内)

 

 

文京区内におけるオリンピック・パラリンピック教育

文京区内にある筑波大学附属学校では、オリンピック・パラリンピック教育が2010年から行われているほか、区内の学校の多くで、現在オリンピック・パラリンピック教育が行われています。

 

ブラインドサッカー

重りを持って跳ぶ古代の幅跳び

 

 

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