筑波大学
オリンピック・パラリンピック総合推進室

Office for the Promotion of Olympic and Paralympic Activities

金栗四三と嘉納治五郎

金栗四三と嘉納治五郎 ~東京高等師範学校・附属中学校とオリンピック~

 

2019年2月某日、筑波大学筑波キャンパスで開催されている「金栗四三展」を会場に、本学関係者が集い「金栗四三と嘉納治五郎 ~東京高等師範学校・附属中学校とオリンピック~」をテーマに座談会を実施いたしました。

 

 

〔登壇者〕

筑波大学体育系 真田 久 教授
筑波大学附属中学校元副校長 山口 正 氏
筑波大学 江上 いずみ 客員教授
筑波大学 清水 諭 副学長
筑波大学 大森 勝 副理事

 

〔司会〕
筑波大学事業開発推進室 髙塚 美穂 氏

 

 

〔金栗四三概要〕

日本で最初のオリンピック選手の一人。1912年ストックホルム大会、1916年ベルリン大会(第一次世界大戦で中止)、1920年アントワープ大会、1924年パリ大会の選手に選出されました。マラソン競技の代表選手に4回も選ばれた人は、世界で金栗だけです。オリンピック選手を目指して自ら様々な練習方法を開発し、長距離走の普及に大きな功績を残しました。ちなみに、グリコのキャラメルの2代目のランナーは金栗をモデルにしたといわれています。

オリンピック選手として大会への出場を目指すのみならず、長距離走の普及に生涯をかけました。箱根駅伝は長距離走普及のために金栗が手がけた取り組みの一つです。生まれ故郷の熊本県和水町(なごみまち)では、亡くなった翌年から「金栗四三翁記念マラソン」が開催されています。日本人が現在、長距離走やウォーキング愛好者が多いのは、金栗の影響があると言っても過言ではないでしょう。(真田 久教授)

 

 

〔金栗四三と嘉納治五郎〕

金栗四三の師が嘉納治五郎先生です。嘉納先生は東京高師校長の時に、日本国民みんなができる体育(国民体育)を作らなくてはならないとして、「長距離走と水泳」を掲げました。彼が考えた国民体育とは端的にいえば、「誰でもできる」運動です。お金がなくても、不器用でも、年齢や性別に関係なく、生涯を通じてできるものです。特に長距離走は、目標を持って取り組むことで自分自身の心も鍛えられるし、名所や旧跡を巡れば地理や歴史の勉強にもなる、ということで嘉納先生が最も推奨しました。嘉納先生の思いを継いだ金栗は、選手引退後も長距離走の普及に取り組み、市民ランナーとして市民マラソンを全国に広めました。(真田 久教授)

 

 

前編

 

〔金栗四三と関係者からオリンピックを読み解く〕

清水副学長(左)と真田教授(右)

 

真田:金栗四三とその背景にいた嘉納治五郎先生、東京高等師範学校、さらに附属中学校の関係者たちの活躍を紐解いていくことは、日本のオリンピックの歴史、スポーツの歴史を知っていくためにも重要なことだと思います。

清水:金栗四三は幼少期から長距離を走っていたんですよね。

真田:そうなんです。自宅から高等小学校(現在の南関第三小学校)まで往復およそ10ないし12キロあったのですが、山道だったので足腰が鍛えられたようです。

大森:今は金栗ロードと呼ばれていますよね。

真田:そうですね。和水町では金栗ロードを実際に歩いて行けるように道に案内が出ています。

清水:いろいろな大会に出たり、練習に練習を重ねたりしても、怪我はしなかったのでしょうか。

真田:最後に出場したパリ大会のときは体調が思わしくなかったようです。しかし、世界記録を3回出していて、最高は2時間19分です。今から100年以上も前ですから大変な記録です。

大森:本当に韋駄天だったんですね。

 

 

〔東京高等師範学校から広まったスポーツ〕

大森:嘉納先生と金栗さんが出てくるまでのわが国のいわゆるスポーツは、今でいうスポーツとは異なるものだったけれど、嘉納先生、金栗さんの登場によってスポーツというものになったんだなと大河ドラマを見ていて思います。

真田:彼らは世界とつながりがありましたので、世界のスポーツ界の情報が東京高等師範学校を経由して日本に広まっていくことになったのです。世界の様子が分かり、スポーツのルールやオリンピックについての情報も入り…と繋がっていきます。後に国際サッカー連盟も大日本体育協会と関わりを持ち、それを契機にして日本サッカー協会が作られました。

山口:東京高等師範学校の学生だった中村 覚之助さんたちが一生懸命取り入れたのですよね。(注:中村 覚之助 日本のサッカー選手・指導者。サッカーの紹介と普及に貢献。)

真田:サッカーだけではなくテニスもです。

清水:庭球に起源する軟式庭球部は昨年130周年記念式典を開催しました。「庭球部」から始まり、そのあと「軟式庭球」、そのあと「ソフトテニス」と名前が変わっていくのですが、全部あわせて130周年になります。大正期に慶応や早稲田が硬式をしているときに、硬式に変わったこともありましたが、戦後また復活して、今日まで来ています。

山口:軟式テニスは附属小学校にグラウンドが2つあり、そのうち一つが軟式テニス発祥の地といわれています。

真田:確かグラウンドのどこかに「発祥の地」と書いてありましたね。

山口:そうなんです。あそこで坪井 玄道がテニス部を作って教えていたそうです。(注:坪井 玄道 体操伝習所の教師をへて1890年に高等師範教授。体操を普及させ、卓球やテニスを紹介した。)

清水:1981年12月にテニスコートを閉場したんですが、閉場前の最後に軟式庭球部のOBOGが集まって、テニス大会をしました。その昔は硬式と軟式の両方を現在の小学校のグラウンドで行っていました。

 

清水副学長(左)と真田教授(右)

 

山口:日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得したのがテニスですが、熊谷 一弥選手も最初は軟式テニスをやっていましたよね。(注:熊谷 一弥 1920年アントワープ男子シングルス銀、男子ダブルス銀 / 1918年の全米選手権において日本人テニス選手として史上初のグランドスラムベスト4に進出)

清水:フォアとバックを同じ面で打つなど、軟式の打ち方をしてますよね。

真田:東京高等師範学校がいろいろなスポーツをとり入れ、それを学生たちが早い時代から実践していたのですね。高師の学生が附属小学校や附属中学校に教えて、それをベースに教師となって日本全国に教えに行ったと。東京高等師範学校が中心となって全国に広めていったと言えます。

大森:逆の言い方をすれば、それがなければ今の日本のスポーツはかなり遅れていたかもしれないですね。

真田:そうですね。かなり遅れていたかもしれないです。もちろん一高や東大もスポーツの実践はなされましたが、東京高等師範学校にスポーツが導入されたことで教え子たちが全国に広めていったという側面は強くあったと思います。

 

 

〔遊戯からスポーツへ〕

大森副理事(左)と山口先生(右)

 

大森:昔は体育と言っていたのでしょうか?

真田:金栗四三の頃は体操と言っていましたが、嘉納先生は体育と言っていました。

山口:遊戯とも言ってますね。彼らの書いた本に「遊戯」と出てくるので、遊びかなと思うとそうじゃない、スポーツのことなんですね。

清水:「運動」とも言っていましたね。運動がその後、スポーツになります。嘉納治五郎先生が国際競技大会に参加することを目標に、フェアプレーやスポーツマンシップといったスポーツの概念を当時から取り入れていたのは非常に大きな功績だと思います。

山口:そうですね。日本人のスポーツはフェアプレー精神で共通していますから。

真田:武道の考え方も影響があったと思います。

山口:武道やフェアプレーを東京高等師範学校の学生に教えていましたから、日本の学校全体にスポーツはフェアでなければいけないという考え方が広まったのは、嘉納先生によるものでしょう。

大森:フェアプレーだからこそ発展したのでしょうね。もし、いかさまができて、勝利にこだわり続けていたら、そこまで広まらないですよね。

 

 

〔嘉納治五郎の教えと鎌倉仏教〕

山口:私は日本史を専門としていますが、先ほど真田先生のお話にもあった、「誰でもできる」とか、「お金がかからない」という考え方は鎌倉仏教を思い出します。平安時代の仏教だとお寺を建てることが大事なんですが、鎌倉仏教は口で言えば誰でもできて、お金がかかりません。

大森:鎌倉仏教は念仏を唱えればいいんですもんね。

山口:そうです。悟りを開きたいなら、自分で座禅を組めばいいんですよね。

真田:難しい経典の意味が分からなくてもいいんですよね。

山口:そういう考え方がなければ、日本で仏教は広まらなかったのではないかと思います。

大森:多くの人ができてはじめて広まりますよね。平安仏教だと、実践できるのはお金がある貴族だけですもんね。

山口:嘉納先生の考え方には日本精神が生きているなと思っています。

 

江上客員教授(左)清水副学長(中央)真田教授(右)

 

真田:当時のヨーロッパでは、スポーツはむしろ貴族階級に限定されていました。ジェントルマンといったお金持ちがやるもので、労働者は仲間にいれないという雰囲気だったんです。嘉納先生は、みんなができなくてはならない、という考え方でした。

大森:ゴルフなんかも貴族的な考え方ですよね。

真田:とはいっても、嘉納先生は貴族階級的なものを否定するわけではなくて、そういうお金がかかるスポーツはお金がある人、あるいは大学なんかでやればいいと考えていました。同時に、国民皆がやるには、長距離走と水泳を中心とすべきだと言っていました。東京高等師範学校も早い時期から全学生を対象に長距離走大会をやっています。1902年から水泳大会も始めるんですが、体育専攻以外の学生も含めて全学生が参加しています。教職員も学生も皆が参加する大運動会もやるのですが、卒業生が近隣の中学校から教え子を連れてくるので、参加者がどんどん拡大しました。

大森:そんな東京高師に金栗四三が入学して来たのですね。

真田:スポーツが一番盛んなときに金栗が入学してきました。彼は東京高等師範学校のスポーツの洗礼を受けたとも言えるかもしれません。地理歴史部に入ったのですが、走らされるし、泳がされるし…。

大森:入学したのは地理歴史部なんですか?体育ではなく?

真田:卒業後は社会科の先生として教鞭をとります。でも部活動は陸上部を面倒見ています。

山口:オリンピックの際にヨーロッパに行っていますから、地理の教員として非常にリアルに教えたようです。金栗先生の授業は非常に面白いと生徒たちが書いたものが残っています。見てきた地理をそのまましゃべるわけですから、彼が教えるヨーロッパや世界の地理はすごく評判が良かったようです。

 

山口先生

 

〔金栗四三と女子体育〕

大森:金栗四三展には女子体育普及に関連する写真も掲示されていますね。

真田:金栗はアントワープオリンピックに出た後にドイツを回ったのですが、そこで女性たちが盛んにスポーツをしている姿を見て、体育を普及させるには女性に普及させなければいけないと考え、帰国後、東京府女子師範学校(現在の東京学芸大学)で教えるようになりました。

山口:金栗さんの就職先は東京高等師範学校の近くにまとまっていたようですね。東京高等師範学校の近くで働いていれば、放課後は後輩たちを教えに来られますから。自分の学校で部活の面倒を見て、終わってから東京高等師範学校へ来て、教えていたようですね。

大森:特別展でも足袋シリーズをやっていますが、いろいろな足袋を置いています。足袋は物証として歴史が分かりやすいですよね。

 

江上先生(左)清水副学長(右)

 

 

中編

 

〔金栗四三と障がい者スポーツ〕

大森:金栗さんのご自宅から写真が出てきたので真田先生に見て欲しいと熊本県玉名市から依頼があり、私も同行しました。視覚障がい陸上大会をやっている写真が出てきたのです。(該当の写真は金栗四三展で展示中)
(注:「金栗さんの思い出の写真と暮らした家をご遺族から玉名市へご寄贈いただきました」(外部サイト))

山口:すごい写真ですね!

真田:筑波大学の障がい者スポーツの関係者たちに聞いたところ、陸上大会をやっていたこと、鉄線を張って、鉄線に通した竹筒を持って走ったという文章は読んだことがあるけれども、写真で見るのは初めてだといっていました。貴重ですね。

 

写真を見る一同

 

江上:視覚に障がいがある方がコースを外れないように竹筒を持って走るのですね。

大森:今では伴走者がついていますが、当時は竹筒と鉄線を使って走っていたみたいですね。

真田:1930年くらいからやっていたようです。全国大会もやっていました。

大森:それが金栗さんのアルバムから出てきたのですよね。

真田:彼が撮った写真から出てきたので、金栗も何らかの形で関わっていただろうと。会場は学習院なのですが、学習院には東京高等師範学校出身の体育の先生がいて、その方と金栗は仲が良かったので不思議ではないですね。

大森:パラリンピックのはしりですよね。

真田:そうだと思いますね。調べてみたら、1908年には附属小学校で知的障がい者のための特別学級を作って週に5時間も体育をやっています。知識を詰め込むよりも社会に適応できる人間を作ろうと、そのためには体育と音楽などがよいと考え、それらを取り込んだ教育を附属小学校で実施していました。その後、補助学級という名前で続くのですが、そこで体育がきっちり根付いていって、今の特別支援学校での体育に繋がっていくのですね。

清水:ほかの高等教育機関にはない東京高等師範学校の特徴がはっきりと表れていますね。

真田:障がいのある生徒は他の地域にある支援学校へ行く場合もあったのですが、東京高等師範学校では、その地域にいる知的障がい者を集めています。非常に斬新な発想といいますか、懐が深い教育だと思います。

 

 

〔金栗足袋、発祥の地〕

山口:そういえば、播磨屋さんの跡地には小さいですが銘板がありまして、金栗足袋の発祥の地は特定されているんです。

真田:お茶の水女子大学と道を挟んだ向かいのほうですか?

山口:茗荷谷から行くと、右側です。細い路地をちょっと入ったところにあります。非常に暗いところに空調機が二つあって、その間に銘板があります。知らなければ見落としてしまうと思います。

真田:我々も東京キャンパスに「大日本体育協会発祥の地」という銘板を作ってもいいかもしれないですね。

清水:東京高等師範学校の校長室が大日本体育協会の本部ですよね。大河ドラマでは毎週校長室が映ります。

真田:大学図書館にある卒業アルバムに載っていた校長室の写真を大河ドラマ担当者に送りました。それをもとに再現したようなのですが、まぁまぁ近いかなという感じです。

大森:写真はもっと広くて、立派ですよね。

真田:ドラマでは実際の歴代校長の写真を送って、当時と同じように飾ってもらっています。嘉納治五郎校長だけは実物とは違って役者の顔ですが。

(一同笑い)

 

真田教授(左)大森副理事(中央)山口先生(右)

 

 

〔永井道明〕

真田:東京高師の永井道明はスウェーデン体操の推進者で体操校長と呼ばれていましたが、彼がスウェーデン体操、肋木(ろくぼく)を日本全国に広めたと言われています。先日、附属小学校で、長距離走、ドッヂボール、肋木をやっている授業場面を大河ドラマの関係者が撮影しました。

清水:永井道明は体操をツールにして、一生懸命規律訓練するのが大事だと考える人で、嘉納治五郎はスポーツ中心に考えているスポーツマンですよね。大河ドラマではあの二人が一緒になって校長室でいろいろな話をしていて興味深いです。永井道明のほうは体操一点張りで、東京高等師範学校の寄宿舎生活で厳しく指導していたのは有名ですよね。

 

清水副学長(左)真田教授(右)

 

山口:そうですね。卒業生が残した記述の中でも「永井先生は厳しくて体育をしっかり教える」と書いてあります。大河ドラマではよく人物考証をしていますね。

真田:当時、軍隊は兵式体操を入れようと言ってきていたのですが、永井はそれをスウェーデン体操で十分だと言って押し返したことがあります。陸軍戸山学校まで乗り込んでいって説得しています。それくらいの気迫があったのでしょうね。

大森:当時の軍隊は、日清戦争、日露戦争に勝って、すごく勢いがありましたよね。その軍隊に対して物申したんですか。すごいですね。

真田:スウェーデン体操があれば十分だ!兵式体操は要らない!と。(笑い)

清水:スウェーデンなど北欧は、日が余り照らないので、胸を強調するような体操や肋木を用いた姿勢をとることが多かったと聞きます。それを、永井先生が日本に取り入れたのですが、規律訓練的で少しスポーツと違う思想的背景があります。だから嘉納先生と永井先生が校長室で一緒に話している様子をドラマで見るのは面白いなと。

真田:二人だったから良かったのかもしれないですね。どちらかだけでは行き詰ってしまっていたかもしれません。飴と鞭といいますか。

大森:時代的に言うと、嘉納先生のほうが先進的だったので、時代がまだ追いついていない時ですよね。

真田:追いついていないですね。スポーツだけだったら必要ないといわれて、体育は必修になっていなかったかもしれません。

山口:野球不要論もありましたからね。野球不要論が流行ったとき、永井道明は「いや野球は必要だ」と、天狗倶楽部主宰の講演会などで野球有用論に賛成しています。永井さんは厳しいだけではない一面もありました。

 

江上客員教授(左)清水副学長(中央)真田教授(右)

 

 

〔附属中学校での教育〕

真田:永井道明も附属中学校で教えていますね。

山口:そうですね。卒業して最初3年間は附属中学校で教えていました。東京高等師範学校の卒業生は附属中学校で何年間か先生をやってから東京高等師範学校の先生になるという方が多かったです。東京高等師範学校は先生を教える学校で、その卒業生が多く教鞭を振るった附属中学校は実験校として、先生たちに一生懸命いろんなことを実験させていました。小学校からあがってきた学生を中学校がしっかり育てて、大学・研究者にまで繋げられるか、ということをよく考えていたのです。その一環として、嘉納先生が創刊した『中等教育研究』という雑誌が出されていました。

大森:第1回の発行はいつですか?

山口:1932年です。研究の内容は、様々な教科の先生が一人の先生の授業を見て、全員で批評会をするというものでした。英語の先生の授業であろうと、体育の先生の授業であろうと、教科に関わらず全ての先生が授業を見て、中学生をどう育てていくのがいいか研究していたんです。

 

山口先生

 

江上:『中等教育研究』のオリジナルはB5くらいの大きさですよね。

山口:そうです。30号くらい出ていますが、戦争中で紙がなくて印刷できず、廃刊となってしまいました。雑誌には、覚えさせるのではなく考えさせる授業を目指していたことが記されています。当時、中等学校は5年間ありましたが、4年間で一高などを受けられるようになるんですね。嘉納治五郎先生は受験のための学校ではないので、しっかり5年間で中学校のものを全部やってから行きなさいと言っていたようです。比較的、余裕を持った教育を実践していたんですね。

真田:中等教育が一番大事だと、嘉納先生はおっしゃっていたようです。東京高等師範学校は中等教育の教員を育てるんだと言うことが残っています。

山口:幅広い国民を育てるためには中等教育でやるべきことをしっかりやって、大学につなげていくべきです。その点でも、嘉納先生は全体を見渡す広い視野を持っていました。

 

 

〔嘉納治五郎と留学生〕

真田教授

 

真田:「誰にでも体育はやれる」という先見の明をもって、嘉納先生は留学生にも同じように体育をさせています。

大森:ドラマで「俺は10万の男だ」って言ってましたね。(注:辛亥革命が起こり自国の状況を不安に思った中国からの留学生たちが嘉納先生に帰国の相談をしに校長室を訪れたシーンで、留学生すべての面倒を見るとして言った台詞)

(一同笑い)

大森:その結果、多額の借金を背負うことになってしまったようですが。

真田:あれは事実のようです。『教育新報』という雑誌の中に当時の記事があるのですが、「嘉納校長の義挙」として紹介されていました。自分が外務省に学資の免除を交渉するが、交渉がダメだったときは自分が私費を投じると。でも外務省は出すわけないですから、嘉納治五郎が経済的に支援することになってしまいました。

山口:北京大学の学長になった銭稲孫(セン トウソン)さんのように、附属中学校の生徒の中には本国へ帰ってから偉くなる方が何人もいますよね。日本の万葉集や源氏物語の研究で有名な方で、文化大革命のときに処分されてしまいましたが、最近では見直されて本も出たそうです。嘉納先生は日本人だけでなく、外国の生徒も最初から受け入れていたんですね。

真田:当時の東京高等師範学校の資料を見たら、600人いるうちの100人が留学生です。6分の1が留学生なんですね。今の筑波大学も恐らくそのくらいの比率だと思います。

清水:現在の筑波大学は、学士と大学院を合わせて約1万6000人の学生がいますが、その内の2500人くらいが留学生です。外国人留学生の割合は全国でもトップクラスですね。

 

山口先生

 

 

後編

 

〔嘉納治五郎と柔道〕

真田教授(左)大森副理事(右)

 

大森:今や、柔道は世界中に広まっていますが、その柔道場に必ず嘉納先生のお写真が飾ってあるのはすごいですよね。逆になんでなんだろう?と思ってしまうほど飾ってありますが、講道館柔道が「柔道」として世界に広まっているという意味なのでしょうか?

真田:そうですね。ヨーロッパにあった格闘技とは全然違って、柔道は教育的な内容だということで柔道は大事にされ、嘉納師範の写真が飾られています。

江上:柔道はスポーツをするだけではなく、礼節を重んじているところが、世界中の方に評価され、自分の子どもに習わせたいと思う親御さんの想いにより柔道人口が増えたと聞きます。

真田:礼節を重んじて、相手を敬い…、というように続きます。

山口:日本文化を広めたのは3人いて、一人は嘉納治五郎、もう一人は岡倉天心、もう一人は新渡戸稲造で、その中でも形として広めたのは嘉納治五郎だと、どこかで聞きました。

清水:柔道に段位制を取り入れ、テキストをかなり書いて、技や指導法を広めていったのが嘉納先生のすごいところだったとよく言われていますよね。

真田:江戸時代の武術というと門外不出で、他流と試合しないといったことがありましたが、嘉納先生はむしろ他流試合を積極的に行いました。

山口:研究熱心ですよね。嘉納先生について調べたときに、嘉納先生が70を過ぎた頃、東京高等師範学校の物理の先生に「相手を投げるときどれくらいの重力がかかるか」とか「相手はどれくらいの重力で受け止めるのか」そういったことを研究してくれと頼まれ、1年間研究したという話があったと、ある本に書いてありました。

大森:今の時代にやらないと勝てないと言われていることを100年も前からやっていたのですね。

山口:技術だけではなく、ちゃんと裏づけを取ろうということですね。

 

 

〔東京高等師範学校が広めたこと〕

江上:附属小学校の運動会には今でも長距離走(1000メートル)があります。運動会が行われているグラウンドを2周回ってから、占春園の方に出て行くんです。児童が占春園を走っている間10分くらいは保護者も誰も観ることができず、果たして何色の帽子の子が最初に戻ってくるか、ドキドキしながら待つという、他の学校の運動会では考えられない種目ですね。

真田:東京高等師範学校の昔の運動会の内容を見ても、長距離走が入っています。

大森:しっかり受け継がれているものを、本当のレガシーと言うのでしょうね。

真田:筑波大学の留学生が多いのもレガシーの一つでしょう。東京だけではなく、全国の学校教育にも伝わっていますが、いろいろな教科の先生が部活動の時間になると教えるという東京高等師範学校が広めた部活動の形は日本独自のものです。

大森:海外には部活はないのですか?

真田:海外には学校の部活ではなく、地域のスポーツクラブがあります。学校の授業が終わった後、学校に残るということはありません。だから、海外の教育関係者が日本に来るとびっくりしますね。授業が終わったのに、なんで皆帰らないのかと。

清水:ヨーロッパでは地域のクラブに所属してスポーツをしていますからね。アメリカだと高校や大学にクラブがありますが。

山口:ヨーロッパは学校にグラウンドがないところが多いですよね。

真田:体育がこれだけ活発、熱心に行われているというのはある意味珍しいですね。

江上:プールが一番特徴的ですよね。外国では学校にプールなどないですから。

真田:ないのが当たり前ですよね。日本で水泳が盛んというのは東京高等師範学校では水泳必修だったからです。東京高等師範学校を出た卒業生が地方に就職すると、校長先生や今で言う教育委員会といったその地方の教育の偉い人たちが集まってきて、東京ではどういう教え方が広まっていますか、注目されていますか、と聞いたそうです。そこで、英語の先生や社会の先生が、水泳実習が非常に良いと応じるのです。冬になったら長距離走で鍛えるのが良いと。そこで試してみると、泳げない人でも泳げるようになる水泳は非常に教育効果が高くて素晴らしいと評価されたのです。走ればみんな体力がつくし、精神的にも強くなるということで、全国に広まっていきました。

 

全体の様子

 

 

〔箱根駅伝〕

大森:マラソンもそうですし、駅伝もそうですけど、冬は長距離走のハイシーズンというのは水泳との兼ね合いがあったように思えますね。ところで、箱根駅伝はこれからドラマに出てきますか?

真田:箱根駅伝は1920年ですので、これから出てきます。

大森:筑波大学陸上部には箱根駅伝に復活してほしいですよね。(注:箱根駅伝復活プロジェクト(外部リンク))筑波大学は第1回優勝校ですよね。第1回の10区では先頭からすごく離れていたそうですが、すごい追い上げだったようですね。

真田:デッドヒートだったようで、すごく盛り上がったみたいです。

大森:たった四校しか出場していないとはいえ、すごいですよね。その箱根駅伝を作ったのが金栗さんなんですね。

山口:箱根の小田原高校にいた先生も関わっていて、野口源三郎も含めて、三人くらいでつくっています。箱根駅伝はいまや年始の一大イベントですよね。(注:金栗四三杯という最も優秀な選手に贈られる賞があり、記念品のトロフィーが金栗四三展に飾られています。)

 

 

〔東京招致〕

山口:嘉納先生の教えが生きていたので1940年、1964年の東京五輪の招致に成功したといっても過言ではありません。

真田:平沢和重氏のスピーチ(1959年 IOCミュンヘン総会)は名演説ですね。「もはやファーイーストではない!」と言って、国語の教科書を出して「五輪の旗」と言うエッセイを英語で読み上げました。見事ですよね。40年の東京オリンピックも64年の東京オリンピックも、筑波大学の茗渓関係者、附属中学校を含めた卒業生がたくさん関わっていますね。

山口:東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の小倉和夫さんも附属中高の卒業生です。

真田:当時は東京教育大学附属ですが、小倉さんが招致委員会の事務総長を勤められて2020年が決まりました。1940年、1964年、2020年すべて附属中学校の卒業生が招致を決めているのです。新しいオリンピック史が作られるのではないかと思うくらいですね。アスリートだけではなく、オリンピックに関わった人たちの人材像をどんどん掘り出していったら凄く面白いでしょうね。

大森:筑波大学、東京教育大学、東京高等師範学校、附属中学校という一連の流れとオリンピック。強いつながりがうかがい知れます。

真田:パラリンピックについても、メダリストのかなり多くが筑波大学の特別支援学校や理療科教員養成施設の出身者です。当時の東京高等師範学校を中心とする大塚界隈の雰囲気といいますか、そこが日本のスポーツの中心で、世界と繋がる玄関口として世界の情報や最新の情報が入ってきていました。それを日本の中でどう生かしていこうかということを、皆で考えていた、そういう場所だったのかなと思います。

 

清水副学長(左)真田教授(中央)大森副理事(右)

 

 

〔金栗四三と嘉納治五郎〕

江上:金栗さんはおいくつで亡くなられたのですか?

真田:92歳です。長寿でした。

高塚:スポーツをやって健康でいるということを証明されていますね。

真田:嘉納治五郎先生は長距離走大会の講評で、東京高師の長距離走大会は早い優勝者を作るのではないと、みながいろんなスポーツを経験できるようにやっているのだと、言っています。金栗も最初に優勝したときに、我が徒歩部は優秀な少数の選手をつくるのではない、皆で一緒になって走ることが目標なのだと言っています。

大森:まだ学生ですよね?まるで教師のようですね。

真田:嘉納校長の教えをそのまま引き継いでいたのでしょう。だからオリンピックで負けてもめげずにマラソンの普及に関わっていったと思います。スポーツの普及こそが大事だと思っていたのではないかと思います。

 

真田教授(中央)の話に聞き入る一同

 

 

登壇者紹介

 

真田 久

筑波大学体育系教授。主な研究テーマは、オリンピック競技会に関する歴史、嘉納治五郎の思想と行動、オリンピック教育の展開など。
TIAS(つくば国際スポーツアカデミー)長、オリンピック教育プラットフォーム(CORE)事務局長。オリンピック・パラリンピック総合推進室員。オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会参与。大河ドラマ「いだてん」ではスポーツ史考証を担当。

 

山口 正

筑波大学附属中学校 元副校長
1948年 2月 福井県生まれ
1975年 3月 東京教育大学大学院修士課程修了、同4月 埼玉県公立高校教諭
1991年 4月 筑波大学附属中学校・附属高等学校教諭
2011年 3月 退職
主な著書に『東京高等師範学校 東京教育大学 筑波大学 附属中学校・附属高等学校 卒業生列伝』 発行 筑波大学附属中学校 2011 / 『附属中学校 教官列伝』など
共著に『story 日本の歴史』(日本史教育研究会) 発行 山川出版社 2001 / 『日本の歴史 歴史の流れわつかむ』(日本史教育研究会) 発行 新泉社2017
監修に『日本の世界遺産』 発行 朝日新聞社 2017 など

 

江上 いずみ

筑波大学客員教授。Global Manner Springs代表。
筑波大学附属高等学校から慶應義塾大学法学部法律学科卒業。
日本航空株式会社にて先任客室乗務員として30年間で約19,000時間を乗務。1987年10月、皇太子殿下・美智子妃殿下特別便(ボストン・ワシントン・ニューヨーク)に選出され同行。帰国後、東宮御所にて殿下・妃殿下に拝謁。
大学や医療機関、介護施設などで「職場に活かすおもてなしの心」をテーマとした講演を手掛ける他、官公庁や企業の新任研修におけるマナー・接遇講師を担当する。
またオリンピック・パラリンピック教育担当講師として全国の小中高校で「おもてなし講座」を展開。国内外での年間講演数は250回に及び、「おもてなし学」の構築に取り組む。

 

清水 諭

筑波大学副学長(教育担当)。筑波大学体育系教授。オリンピック・パラリンピック総合推進室長。スポーツ社会学、身体文化論専攻。1994~95年デンマーク・スポーツ・身体・文化研究所客員研究員。著書に『甲子園野球のアルケオロジー:スポーツの「物語」・メディア・身体文化』(新評論,1998)。編著に『オリンピック・スタディ-ズ:複数の経験・複数の政治』(せりか書房, 2004)など。

 

大森 勝

筑波大学副理事。野村證券で八王子支店長、和歌山支店長、法人企画部長などリテールビジネスならびに地方創生や東日本大震災の復興などに携わる。2015年から2018年まで野村ホールディングスの東京2020オリンピック・パラリンピック推進室長。東京2020大会のゴールドパートナーとなった野村ホールディングスのオリパラ活動を統括。4万人社員とその家族も含めた活動を企画立案・推進。2018年7月より現職。筑波大学の事業開発推進を担当するとともに、オリンピック・パラリンピック総合推進室員として、筑波大学のオリパラ活動の推進に携わる。

 

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